2007.12.12 Wednesday
相談協力員の仕事と散歩・その4
掩体壕

この飛行場は、昭和14〜15年にかけて戦闘機の練習場として作られたらしい。
しかし、当時の陸軍が全面的に支配をして戦闘機「飛燕」の格納と練習場となったらしい。
その後、戦況も厳しくなって、S20年は首都防衛のための特攻隊の訓練基地となり、
空襲の際の戦闘機「飛燕」の格納庫・掩体壕がつられた。
現在、この壕は2箇所残っていて、その1つ。
ここを後にして東側にしばらく行くと、2つ目の掩体壕があった。

格納されていた様子の模型。
そしてこの壕は、戦闘機の絵と兵士が誘導している姿が書かれていた。
飛行場の周りも戦争当時B29の襲来が激しかった・・・と聞いてはいたけれど、このような壕をまざまざと目の当たりにして身の毛が弥立つのを覚えた。
大分ゆっくりと見て回ったので、4時になっていた。
夕暮れになると途端に寒さが身にしみてきた。
ここから、東側にある飛行場のターミナルを通り抜け、今度は三鷹市の総合グランドを通り抜けて天文台通りへ出る。調布中学校を通り過ぎて、わがお花畑の前へ。
これでスタジアムを中心とした旧関東村を一周した。
少なくとも5〜6kmはあるだろうか?
ここを毎日1時間〜1時間半かけてウォーキング
したら良いのかも・・・

この飛行場は、昭和14〜15年にかけて戦闘機の練習場として作られたらしい。
しかし、当時の陸軍が全面的に支配をして戦闘機「飛燕」の格納と練習場となったらしい。
その後、戦況も厳しくなって、S20年は首都防衛のための特攻隊の訓練基地となり、
空襲の際の戦闘機「飛燕」の格納庫・掩体壕がつられた。
現在、この壕は2箇所残っていて、その1つ。
ここを後にして東側にしばらく行くと、2つ目の掩体壕があった。

格納されていた様子の模型。
そしてこの壕は、戦闘機の絵と兵士が誘導している姿が書かれていた。飛行場の周りも戦争当時B29の襲来が激しかった・・・と聞いてはいたけれど、このような壕をまざまざと目の当たりにして身の毛が弥立つのを覚えた。

大分ゆっくりと見て回ったので、4時になっていた。
夕暮れになると途端に寒さが身にしみてきた。
ここから、東側にある飛行場のターミナルを通り抜け、今度は三鷹市の総合グランドを通り抜けて天文台通りへ出る。調布中学校を通り過ぎて、わがお花畑の前へ。
これでスタジアムを中心とした旧関東村を一周した。
少なくとも5〜6kmはあるだろうか?
ここを毎日1時間〜1時間半かけてウォーキング
したら良いのかも・・・



、子供連れ
等々の人が足を止めては飛行機の発着様子を眺めている。





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